まりんきょの博物館

博物館にはどんなものがあるのだろうか、なんとか学と名付けられた分野を寄せ集めます。

経済学

前回の記事から1年が経った。法学に続いて今度は経済学を取り上げる。

 

経済学とは何だろうか。経世済民の学というのがその起こりだというが、ではその経世済民というのがどういうことなのか、わからない。理財学というと少しはわかるような気がするが、ほとんどはわからない。経済学は社会科学に属していながら金銭という計数可能な単位を扱うので自然科学、特に数学を使うことが多く、数学感覚が多く要求される学問でもある。私がまだ高校生だったころは、経済学というのはマルクス経済学と近代経済学に大きく分かれていて、〇〇大学はマルクス経済学が、△△大学が近代経済学が主流だという話を聞いた。同じ経済学でも二つの流派があるというのは私には信じられなかった。結局大学に入って経済学というのもは学ばずじまいだった。

 

社会人になっても、経済学を学ぶ意欲はわかなかった。何かの試験で、経済的知識を学ぶ必要には迫られたが、経済学そのものを学ぶことはなかった。だから LS-IM 曲線が何かと言われても全くわからないし、ビルトインスタビライザー効果とは何かを説明せよと言われてもちんぷんかんぷんだ。ではなぜそんな知ったかぶりをするのかといわれると、経済学がわからない負い目があるからだ。

 

コロナ禍で経済が落ち込んでいるという。それは経済が落ち込むのは当然だと思うが、私が意外に思ったのは、株価の下げ幅について「リーマンショックに次いで」、という形容詞が付くことだった。ということは、リーマンショックの下げ幅はコロナ禍より大きかったということなのか。たかがリーマン・ブラザーズという会社の問題だけで株価がコロナ禍のときより値下がりしたとは信じられない。その理由がわかれば私も経済がわかったといえるのかもしれないが、おそらく死ぬまでわからないだろう。

 

景気がよくなるには、消費活動を増すのがいいだろう。しかし、私は貧乏だから、消費に回すものがない。私はコロナ禍を契機にこれ幸いと巣籠生活に入った。コロナ禍期間に使ったお金は飲食や生活必需品を除いては楽譜数冊の購入とチェロの稽古代だけだった。そしてコロナ禍が続く限り、消費活動は同じだろう。そしてコロナ禍が終わっても、私の消費活動に加わるのは将棋道場の入場料ぐらいのような気がする。

法学

二分法はやめよう、ということを言っておきながら、いわゆる理科系に属する学問分野しか触れてこなかった。今回は、いきなり文科系、あるいは社会科学に属するであろう、法学について気になることを述べる。

 

私はかねがね、なぜ大学の中で法学部というところが人気があるのか、不思議に思っていた。というのも、法律が表に出てきて活躍する場面など、ほんの一部だろうと思っていたからだ。世のため人のためということならば、経済学だとか、経営学商学といったところを学ぶのが企業にとってはよほど役に立って、企業からひっぱりだこになるのだろう、と思っていた。しかし、どうも現実は違うようだ。

 

ふと考えた理屈はこうである。人間の生死にかかわる職業として直接関与する可能性が文科系の中では最も高い、峻厳な側面があるのが法学であり、そのような峻厳な側面が文科系の学問の中で法学の人気を高くしているのではないか、ということである。病気やケガを直す医学が、理科系の学問の中で飛びぬけて人気が高い、ということからの類推である。法学が人の生死に直接関与するというのは、殺人や傷害致死という刑法における罪をめぐる考察、そして、死刑制度をめぐる議論などに、法学が関与するというわけだ。

 

しかし、この理屈は、理屈としての体をなしていないように思える。

 

もう少し別の側面から考えてみた。人間の生活を総体としてとらえるとき、もっとも効率よく網羅的にとらえられる側面は何か。それが法律であろう、というのが法学の立場という仮説だ。かりにその側面とは政治学かもしれない。経済学かもしれない。経営学かもしれない。心理学かも、社会学かも、地理学かもしれない。ただ、法学というものが他の学問に比べて優位をもっているとすれば、強制力をもったりもたなかったり、両様あるという点であろう。また、明文化されるものもあれば、判例とかたちで定着されるものもあり、あるいは議論として残ったままであり、これらさまざまな形がローマの時代から営々たる歴史を築いていて多くの意見がある、というのが法学の魅力なのかもしれない。

 

私は法学を学生時代の社会科学の一般教養科目として受講したが、最初の試験は日時を間違えたため単位を取り忘れた。青ざめた私は、性懲りもなく次の年に再度法学を受講し、二度目の試験でかろうじて単位を取得した。しかし、法学で覚えていることといえば、「となりの敷地から自分の敷地の上にまで伸びている柿の木や実は切ってはいけないが、となりの敷地の地中から自分の敷地にまで伸びてくる竹の地下茎やタケノコは取ってよい」という、些末な話題だった。些末な話題いえば、競売を「きょうばい」ではなく「けいばい」と読むことを知ったのも法学の時間だった。同じ大学の法学部の後輩に競売の読み方を確認したところ「初めて知りました」とのことだった。早ければ早いほどいい、ということではないが、こんなこともあった。

数学

最近、理系と文系という二分法をやめよう、という主張が出てきている。私も頭では賛同するが、腹では納得していない。というのも、理系と文系を分けているものがあるからだと信じている。その「あるもの」とは、実験である。実験がある学問は理系だし、実験がない学問は文系だ、と私は信じてきた。しかし、実験がない理系の学問分野があることに気が付いた。数学である。数学には、実験がない。

本当に数学には実験がないのか。これは2つの点で間違っている。第1の点は、学生のカリキュラムとして、大学の数学科の学生は、教養科目を取得するときに、他の理科系と同じように物理学実験とか化学実験をかなりの割合で履修するだろう。特に物理学実験は、微分方程式を数値的に解いてみて実測値と比較して検証する、ということを要求されるので、数学専攻の学生がおこなうべきだ。第2の点はより本質的で、数学という分野それ自体に実験数学という分野が勃興していることにある。数値や図形といった対象が、特定の変換によってどのような推移をするか、ということをコンピュータを援用することによって結果を出すこと、そしてその結果を検証することが実験数学としてのおもしろさを有している。ただし、この実験数学は大学初年級で行われるには至っていない。その代わり、数学では演習や演義という、実際に問題を解いてみてその解き方について指導を受けるという時間がある。これはこれで大変である。

 

そういえば、数学者に関する小話を聞いたので記しておく。

 

ある数学者が交通事故に会い、救急車で運ばれた。救急車のなかで、救命救急士が、数学者の意識を確かめるために「1たす1は?」と質問したところ、数学者は逆にこう聞き返した:「その体の標数は?」。

 

スポーツの話題で持ちきりの時期、ある数学者は授業でこんな話をした:「みなさんはオリンピックだ、世界選手権だといって陸上競技に夢中なようですが、私にはこんなにつまらないものはありません。たとえば、100 m走がありますね。世界新記録はどんどん更新されますが、その世界新記録は時系列にすれば単調に減少するわけです。つまりその記録は単調に減少する数列でしかも下に有界ですから、実数の性質により下に有界な単調減少列は下限に収束します。収束するとわかっている記録のどこが面白いのですか?

天文学

前回、前々回といわゆる地学の分野を巡ってきた。天文学も高校の地学に入っているが、地面の学問でも、地球の学問でもない。

天文学というのは天の文学ではない、ということは知っている。ではどんなことを研究するのか、よくわからない。昔は星の軌道を予想するのが天文学、ということだったように覚えているが、最近はどうなのだろうか。

私は昔、小学校の理科の宿題で、日が沈んだ後に月が出ているのは西か東か、というのを間違えてしまったことがある。たぶん、方角の西と東を間違えたのだろう。それ以降、星や太陽や月を扱う天文学は敬して遠ざけている。

地質学

地質学とは何だろうか。私は想像力が貧弱だから地質とはすなわち土としか思わなかった。あまりにもおバカである。地には土だけでなく、岩も石も砂も鉱石もあるのだ。地面を構成するそんな土や岩や石や砂や鉱石が、力や熱を受けて場所を変え、性質を変えていく。そんなことに興味を持てるようになりたかった。

今はただ、海に行って褶曲した地形を見て感心しているだけである。

気象学

雨が降っている。毎日の会話で暑いだとか寒いだとか、ムシムシするとかカラカラだとかいうが、まじめに気象学を勉強したことはない。

 小学校のころ、学研の「科学と学習」を購読していた。2種類を購読していた年もあったが、科学だけだったときもあった。その、科学の付録で風速計と風向計 のセットがあった。風向計は風見鶏のようなものである。風速計は3個の半球が軸の周りについている構造で、軸の一部が太い三角錐になっていて脇の3面のう ち1面だけに金属シールが張られている。1分間に回転する金属シールが見える回数を図って風速の強さを確認するしくみだった。風が強い日の観測では金属 シールの個数を数えるのは大変だった。今思えば、平均風速 m/s と 1分間に回転した風速計の回転数の関係はわかっていたのだろうか。

中学校の頃だと思う。ラジオの気象情報を聞いて天気図を書いていたことがあった。おそらく、天気が好きだったわけでもなく、天気図が好きだったわけでもなく、あのたんたんとしたラジオの気象情報に惚れて、形にしたいと思っただけなのだろう。そのころ天気図書きを続けていれば、もっと気象に目覚めて自分の世界も豊かになっただろう。

高校に入ってからは、気象に興味が惹かれることはなかった。地理の時間にケッペンの気候区分というのを習ったが、それと理科の気象が結びつくことはなかった。

今は雲の形を眺めたり、長雨の間の近所の堀の水位を気にしたりすることしかなくなってしまった。これからは「やさしい気象学」という本を読んでみよう。